2008年07月01日
悲風の丘の風景(その4)
>> 悲風の丘の風景(その1)
>> 悲風の丘の風景(その2)
>> 悲風の丘の風景(その3) はこちら
実は前回までに紹介した悲風の丘の画像は2007年に撮影したもので、あの当時地滑りを起こしていた場所も....

今は復旧工事も終わってご覧の通り。

地滑りを起こしていた場所もすっかり片づいたなと、飯あげの道を歩いたときのことを思い出しつつ車を走らせていると..... ええっ!

悲風の丘への入り口付近が、前回とかなり様子が変わっている!(下の画像は2007年のものです。)

いったい何があったんだ?

聞いてみると、公園として整備することになったとのこと。

24号壕の近くにあった憲法九条の碑あたりもご覧の通り。

前回、私が何度も足を滑らせそうになりながら、ガイドロープを使って下っていった、あの飯あげの道がごっそり切り開かれてしまったかのように見えました。

私がこの光景を目撃した時はまだ公園整備の最中でしたので、飯あげの道が果たしてどの程度切り開かれてしまったのかを確認することはできませんでした。
ただ何というか、大切な資料を一つ失ってしまったかのように思えました。公園として整備された後も、当時の様子が感じられるような場所であり続けて欲しいのですが、果たしてどうなっているでしょう。

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実は前回までに紹介した悲風の丘の画像は2007年に撮影したもので、あの当時地滑りを起こしていた場所も....
今は復旧工事も終わってご覧の通り。
地滑りを起こしていた場所もすっかり片づいたなと、飯あげの道を歩いたときのことを思い出しつつ車を走らせていると..... ええっ!
悲風の丘への入り口付近が、前回とかなり様子が変わっている!(下の画像は2007年のものです。)
いったい何があったんだ?
聞いてみると、公園として整備することになったとのこと。
24号壕の近くにあった憲法九条の碑あたりもご覧の通り。
前回、私が何度も足を滑らせそうになりながら、ガイドロープを使って下っていった、あの飯あげの道がごっそり切り開かれてしまったかのように見えました。
私がこの光景を目撃した時はまだ公園整備の最中でしたので、飯あげの道が果たしてどの程度切り開かれてしまったのかを確認することはできませんでした。
ただ何というか、大切な資料を一つ失ってしまったかのように思えました。公園として整備された後も、当時の様子が感じられるような場所であり続けて欲しいのですが、果たしてどうなっているでしょう。

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2008年06月25日
悲風の丘の風景(その3)
>> 悲風の丘の風景(その1)
>> 悲風の丘の風景(その2)はこちら
まずい、道がない!

まずい、道がない!

道を見失って慌てましたが、しばらくうろうろしているうち、仏ぬ前の石碑があった場所まで戻ってこれました。

ちょっと慌てましたが、気を取り直して先へ進みます。

道を見つけたのはいいのですが、だんだん勾配がついて急な下りになってきたので、何度も滑り落ちそうになります。

何度も足を取られそうになりながらも前へ進んでいくと、それを見越していたか、道沿いにガイドロープが張り巡らされていました。ここから先はロープをつかみながら、ゆっくりと前へ進みます。

しばらくすると道らしい道がなくなってくるのですが、誘導の看板がいくつかありましたので、それを頼りに進んでいきます。

またしばらく進んでいくと、目の前に憲法九条の碑が見えてきました!

飯あげの道は24号壕の前に出てくるようになっていました。

沖縄陸軍病院24号壕(第1外科壕群) - 現地の看板より引用
24号壕は貫通していない未完成の壕です。当時は滴がしたたり、中はぬかるんでいました。ひめゆり学徒隊70人~80人の待機所となってからも、壕の奥では壕掘り作業が続き、落盤の危険があったのです。酸素が減ってろうそくの炎が消えそうになると、上着や風呂敷、毛布などを振って中の空気を入れ換えました。1945年(昭和20年)4月末には、患者の病室として使用することになりました。
現在の24号壕は幅が床面1.8メートル、天井部1.6メートル、高さは1.8メートルで、壁面には約90センチおきに坑木を立てた跡があります。中に入って約32メートルほぼ真っ直ぐに進み、左に曲がると4メートルほどで行き止まりです。しかし、そこから23号壕に下りる幅1メートルの細い通路が掘られています。現在の出入り口は、崩れてきた天井の土によって高い位置になっており、本来の出入り口はもう少し前方であったようです。
南風原文化センター 2002年
24号壕の入り口は、崩れてきた天井の土でほとんど塞がっているように見えます。

飯あげの道を抜けると、目の前に20号壕入り口の管理棟が見えます。

山道に慣れている方なら、これくらいのけもの道なんて大したことないかと思います。
しかし当時は、砲弾が頭の上を飛び交う中、ひめゆり学徒隊の方は壕から井戸のある炊事場まで、炊き出しのため天秤棒を担いでこの道を行き来していたと言われています。壕の入り口から、丘の向こうにいる米兵の姿が見えたという証言もあるそうですので、本当に命がけの作業だったと思います。
壕には直視出来ないほどの重傷患者が次々と運び込まれ、出来る治療といえば傷口からの炎症を防ぐため、その手足を切断するための患部手術のみ。ほとんどの手術は麻酔なしで行われるため、ひめゆり学徒隊の方が出来ることといえば数人がかりで暴れる患者を押さえつけること。患者の包帯を取り替えるときに行うのは、傷口にわいたウジを取り除くことと多量の膿を拭き取ること。壕の中には昼夜を問わずうめき声が響き渡り、交代制で砲弾が飛び交う中を天秤棒を担いで炊き出しに走る。
生き地獄です。
ひめゆり学徒隊の方は当時、どんな気持ちでこのけもの道を行き来していたのか、正直なところ想像すらつきません。

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まずい、道がない!
まずい、道がない!
道を見失って慌てましたが、しばらくうろうろしているうち、仏ぬ前の石碑があった場所まで戻ってこれました。
ちょっと慌てましたが、気を取り直して先へ進みます。
道を見つけたのはいいのですが、だんだん勾配がついて急な下りになってきたので、何度も滑り落ちそうになります。
何度も足を取られそうになりながらも前へ進んでいくと、それを見越していたか、道沿いにガイドロープが張り巡らされていました。ここから先はロープをつかみながら、ゆっくりと前へ進みます。
しばらくすると道らしい道がなくなってくるのですが、誘導の看板がいくつかありましたので、それを頼りに進んでいきます。
またしばらく進んでいくと、目の前に憲法九条の碑が見えてきました!
飯あげの道は24号壕の前に出てくるようになっていました。
沖縄陸軍病院24号壕(第1外科壕群) - 現地の看板より引用24号壕は貫通していない未完成の壕です。当時は滴がしたたり、中はぬかるんでいました。ひめゆり学徒隊70人~80人の待機所となってからも、壕の奥では壕掘り作業が続き、落盤の危険があったのです。酸素が減ってろうそくの炎が消えそうになると、上着や風呂敷、毛布などを振って中の空気を入れ換えました。1945年(昭和20年)4月末には、患者の病室として使用することになりました。
現在の24号壕は幅が床面1.8メートル、天井部1.6メートル、高さは1.8メートルで、壁面には約90センチおきに坑木を立てた跡があります。中に入って約32メートルほぼ真っ直ぐに進み、左に曲がると4メートルほどで行き止まりです。しかし、そこから23号壕に下りる幅1メートルの細い通路が掘られています。現在の出入り口は、崩れてきた天井の土によって高い位置になっており、本来の出入り口はもう少し前方であったようです。
南風原文化センター 2002年
24号壕の入り口は、崩れてきた天井の土でほとんど塞がっているように見えます。
飯あげの道を抜けると、目の前に20号壕入り口の管理棟が見えます。
山道に慣れている方なら、これくらいのけもの道なんて大したことないかと思います。
しかし当時は、砲弾が頭の上を飛び交う中、ひめゆり学徒隊の方は壕から井戸のある炊事場まで、炊き出しのため天秤棒を担いでこの道を行き来していたと言われています。壕の入り口から、丘の向こうにいる米兵の姿が見えたという証言もあるそうですので、本当に命がけの作業だったと思います。
壕には直視出来ないほどの重傷患者が次々と運び込まれ、出来る治療といえば傷口からの炎症を防ぐため、その手足を切断するための患部手術のみ。ほとんどの手術は麻酔なしで行われるため、ひめゆり学徒隊の方が出来ることといえば数人がかりで暴れる患者を押さえつけること。患者の包帯を取り替えるときに行うのは、傷口にわいたウジを取り除くことと多量の膿を拭き取ること。壕の中には昼夜を問わずうめき声が響き渡り、交代制で砲弾が飛び交う中を天秤棒を担いで炊き出しに走る。
生き地獄です。
ひめゆり学徒隊の方は当時、どんな気持ちでこのけもの道を行き来していたのか、正直なところ想像すらつきません。

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2008年06月24日
悲風の丘の風景(その2)
>> 悲風の丘の風景(その1)はこちら
その道は真っ直ぐ森に向かっています。

森の中に向かって歩きます。

森の中に向かって歩きます....

森の中に向かって歩きます.... 聞こえるのは風の音だけ。

森の中に向かって歩きます.... 周りに何も見えないので距離感覚が麻痺してしまい、どれくらい歩いたのか検討がつきません。

森の中に向かって歩きます.... いつの間にか道の舗装もなくなっています。さすがに、だんだん不安になってきます。

森の中に向かってどれくらい歩いた頃でしょうか。先の方に石碑が見えてきました。

仏ぬ前と呼ばれる石碑です。

仏ぬ前を見つけたことで、ここが飯あげの道であることを確信しました。
飯あげの道とは、南風原陸軍病院に動員されたひめゆり学徒隊が、病院壕から井戸のある炊事場まで、飯あげという任務のため通ったとされる道のことです。それはとても危険な任務のため、病院壕や炊事場に向かう途中、還らぬ人となった方もいらしたそうです。
仏ぬ前の近くに、拝所のようなものも見つけました。

仏ぬ前や拝所を見つけたまではいいのですが.... あれ、道がない.... もしかして迷った?

道を見失ったことで急に焦りはじめ、全身から汗が噴き出してきます.... まずい!
>> 次に続く。

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その道は真っ直ぐ森に向かっています。
森の中に向かって歩きます。
森の中に向かって歩きます....
森の中に向かって歩きます.... 聞こえるのは風の音だけ。
森の中に向かって歩きます.... 周りに何も見えないので距離感覚が麻痺してしまい、どれくらい歩いたのか検討がつきません。
森の中に向かって歩きます.... いつの間にか道の舗装もなくなっています。さすがに、だんだん不安になってきます。
森の中に向かってどれくらい歩いた頃でしょうか。先の方に石碑が見えてきました。
仏ぬ前と呼ばれる石碑です。
仏ぬ前を見つけたことで、ここが飯あげの道であることを確信しました。
飯あげの道とは、南風原陸軍病院に動員されたひめゆり学徒隊が、病院壕から井戸のある炊事場まで、飯あげという任務のため通ったとされる道のことです。それはとても危険な任務のため、病院壕や炊事場に向かう途中、還らぬ人となった方もいらしたそうです。
仏ぬ前の近くに、拝所のようなものも見つけました。
仏ぬ前や拝所を見つけたまではいいのですが.... あれ、道がない.... もしかして迷った?
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2008年06月23日
悲風の丘の風景(その1)
去年、撮影した写真ですが紹介します。
南風原町役場前の道を南城市向けに進むと、途中で悲風の丘と書かれた小さな看板を見つけることができます。

看板は沖縄陸軍病院南風原壕のあった黄金森(こがねもり)という場所を指しています。

看板の指す方角に進んでみますが、とても細い道なので、その先に何があるのかよく分かりません。

途中で振り返ってみると、南風原町一帯を見渡すことができます。

しばらく進むと階段が現れました。その先には看板のようなものが見えます。

階段をのぼって右手を見ると、石碑のようなものが見えます。

実はここは戦時中、沖縄陸軍病院南風原壕が存在していた場所で、悲風の丘と名付けられているのです。

沖縄陸軍病院(球18803部隊) - 現地の看板より引用
第32軍(沖縄守備軍)直属の沖縄陸軍病院は当初、那覇の開南中学校に本部・内科・伝染病科、済生会病院に外科、県立二中に兵舎を置いていました。病院長は廣池文吉軍医中佐で、軍医・看護婦・衛生兵など300人余りの体制でした。
ところが1944年(昭和19年)10月10日の空襲によって施設が焼失したため、南風原分院のあった南風原国民学校に移動します。1945年(昭和20年)3月23日に米軍の空襲が始めると、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒および引率教師237名が、看護補助のため動員されました。彼女たちは戦後、ひめゆり学徒隊と呼ばれました。
米軍の上陸を前に、病院は黄金森一帯に掘られていた30余りの壕(通称、南風原陸軍病院壕)へと移動しました。外科は第1外科、内科は第2外科、伝染病科は第3外科へと改められたのです。
5月22日、首里城地下におかれた第32軍司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へ移動することになりました。その際、重傷患者には青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。南風原陸軍病院壕跡の碑には「重傷患者二千余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだ明らかではありません。
1990年、南風原町は戦争の悲惨さを伝える証として、現存する第1外科壕群と第2外科壕群を文化財に指定しました。第二次世界大戦の戦争遺跡としては全国で初めてのことでした。
現在は20号壕、24号壕の公開に向けての準備を進めています。その他の壕は入り口が落盤しているため、琉球大学考古学研究室の協力で、壕の位置を調査しています。
南風原町指定文化財(史跡)南風原陸軍病院壕(第1外科壕群、第2外科壕群)
南風原文化センター 2002年
悲風の丘の碑の隣には、南風原陸軍病院壕跡の碑があります。

なんとなく南風原陸軍病院壕跡の碑の裏手に目をやると....

ここ、壕が落盤した跡じゃないかと思ったのですが....

この黄金森はあまり地盤が強い場所ではないようで、私が見学したときも近くで地滑りが起きていました。壕を掘るのに適した場所ではなかったかも知れません。

碑のある場所から先ほどのぼってきた階段の場所へ戻ると、さらに森の方向へ道がのびていることが分かります。

少し怖い雰囲気はあったのですが、森に向かって進んでみることにします。
>> 次に続く。
悲風の丘の場所はこちら

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南風原町役場前の道を南城市向けに進むと、途中で悲風の丘と書かれた小さな看板を見つけることができます。
看板は沖縄陸軍病院南風原壕のあった黄金森(こがねもり)という場所を指しています。
看板の指す方角に進んでみますが、とても細い道なので、その先に何があるのかよく分かりません。
途中で振り返ってみると、南風原町一帯を見渡すことができます。
しばらく進むと階段が現れました。その先には看板のようなものが見えます。
階段をのぼって右手を見ると、石碑のようなものが見えます。
実はここは戦時中、沖縄陸軍病院南風原壕が存在していた場所で、悲風の丘と名付けられているのです。
沖縄陸軍病院(球18803部隊) - 現地の看板より引用第32軍(沖縄守備軍)直属の沖縄陸軍病院は当初、那覇の開南中学校に本部・内科・伝染病科、済生会病院に外科、県立二中に兵舎を置いていました。病院長は廣池文吉軍医中佐で、軍医・看護婦・衛生兵など300人余りの体制でした。
ところが1944年(昭和19年)10月10日の空襲によって施設が焼失したため、南風原分院のあった南風原国民学校に移動します。1945年(昭和20年)3月23日に米軍の空襲が始めると、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒および引率教師237名が、看護補助のため動員されました。彼女たちは戦後、ひめゆり学徒隊と呼ばれました。
米軍の上陸を前に、病院は黄金森一帯に掘られていた30余りの壕(通称、南風原陸軍病院壕)へと移動しました。外科は第1外科、内科は第2外科、伝染病科は第3外科へと改められたのです。
5月22日、首里城地下におかれた第32軍司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へ移動することになりました。その際、重傷患者には青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。南風原陸軍病院壕跡の碑には「重傷患者二千余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだ明らかではありません。
1990年、南風原町は戦争の悲惨さを伝える証として、現存する第1外科壕群と第2外科壕群を文化財に指定しました。第二次世界大戦の戦争遺跡としては全国で初めてのことでした。
現在は20号壕、24号壕の公開に向けての準備を進めています。その他の壕は入り口が落盤しているため、琉球大学考古学研究室の協力で、壕の位置を調査しています。
南風原町指定文化財(史跡)南風原陸軍病院壕(第1外科壕群、第2外科壕群)
南風原文化センター 2002年
悲風の丘の碑の隣には、南風原陸軍病院壕跡の碑があります。
なんとなく南風原陸軍病院壕跡の碑の裏手に目をやると....
ここ、壕が落盤した跡じゃないかと思ったのですが....
この黄金森はあまり地盤が強い場所ではないようで、私が見学したときも近くで地滑りが起きていました。壕を掘るのに適した場所ではなかったかも知れません。
碑のある場所から先ほどのぼってきた階段の場所へ戻ると、さらに森の方向へ道がのびていることが分かります。
少し怖い雰囲気はあったのですが、森に向かって進んでみることにします。
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2007年09月10日
沖縄陸軍病院南風原壕で思い出した事
南風原町にある黄金森(こがねもり)野球場の裏手には、戦時中病院として使用された沖縄陸軍病院南風原壕跡があります。

黄金森陸上競技場の駐車場にある小さな案内板を目印に壕跡へ向かいます。入口までは250m程度歩きます。

壕跡へ向かう途中、20号壕出口の前を通ります。壕入口に向かうため、更に奥へ歩いていきます。

壕入口を目指し、遊歩道を歩いていきます。

2007年6月より一般公開が始まった20号壕の入口に着きました。

「沖縄陸軍病院南風原(はえばる)壕群20号」 - 現地の看板より引用。
20号は第二外科の中心的な壕で、患者の病室、手術場、勤務者室として使用されました。北側に隣接する19号や南側に隣接する21号と中央部で連結した貫通壕でした。
西口から十字路までの左側壁沿いには軍医と衛生兵、看護婦用の二段ベットが設けられ、薬品箱や医療器具などが置かれていました。4月中旬からは中央部の十字路が手術場となり、ランプのほの暗い灯りで、麻酔なしの手術が行われたのです。それは傷口からの炎症を防ぐため手足を切断する患部手術が殆どでした。十字路から21号につながる通路には戸板が並べられ、それが女子学徒たちの休憩所でした。十字路から東口までの右側壁沿いには幅約90センチメートルの棚が二段あり、入院患者のベットとして使われていました。
気管を切開し、喉からピューピューと息がもれる患者、下あごのない患者、火炎放射器で全身を焼かれた患者など、直視出来ないほどの重症を負った患者が収容されていました。
1994年から行われた考古学的発掘調査によって、壕の長さが約70m、高さほぼ1.8m、床幅1.8mで構築されたことや、東口外側で地中に隠すように埋められた多数の医薬品類が確認されています。壕の壁や天井にはツルハシで掘った跡が残り、床面にはほぼ90cmおきに坑木を設置する柱穴があります。坑木の一部は焼けて炭化していますが、現在も残っています。壁や天井も黒く焼けこげており、これは病院の南部撤退後、米軍の火炎放射攻撃によって壕内が火災状態になったためと見られています。なお十字路付近の天井部分には、朝鮮人兵士が書いたと考えられる文字が刻まれています。
- 南風原文化センター 2007年
壕の中を見学しようと思い、20号壕入口の受付を訪ねたのですが人影がありません。受付の案内をよく見てみると、内部の見学は完全予約制とのことでした。私は予約なしで壕を訪ねたため、今回は内部の様子を知ることは出来ませんでした。
仕方がないので、20号壕入口の案内板にある内部の写真を撮影しました。






20号壕入口の側には憲法九条の碑が建てられています。

近くに24号壕の入口がありましたが、まだ整備されていないので一般公開されていないようです。

20号壕入口にある看板の説明文を読んでいたとき、昔のことを思い出していました。
私がまだ小さな頃、実家の近くに小さな病院がありました。その病院の先生は小柄で年配の方でしたが、話し方が乱暴で対応も荒々しく、何かにつけすぐに注射を打ってくるものですから、子供の私にとっては恐怖以外の何者でもありませんでした。私が何か悪さをした際、親が「○○病院に連れて行って先生に看てもらうよ!」と言うとすぐに泣いて謝ったという程ですから、よほど怖かったのだろうと思います。
子供だったので記憶が曖昧なのですが、先生の口癖は「こんなもの怪我のうちに入らない」で、何で怪我をして病院に来ているのに怪我でないのか、と頭にきたことを覚えています。
後で知ったのですが、先生は元軍医で、戦時中相当な思いをしながら生き残った方だとのことでした。知り合いの話では、先生は滅多に酒を飲まないのだが、飲むと必ず当時のことを思い出していたようで、最後はいつも「助けることが出来ず済まなかった」と号泣していたそうです。子供の頃から怖い人、というイメージしかなかった先生でしたが、その話を初めて聞かされたときは申し訳ない気持ちで一杯でした。
20号壕の出口は黄金森野球場を向いています。彼らには今の世の中がどう見えているのでしょうか。

沖縄陸軍病院南風原壕の場所はこちら
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黄金森陸上競技場の駐車場にある小さな案内板を目印に壕跡へ向かいます。入口までは250m程度歩きます。
壕跡へ向かう途中、20号壕出口の前を通ります。壕入口に向かうため、更に奥へ歩いていきます。
壕入口を目指し、遊歩道を歩いていきます。
2007年6月より一般公開が始まった20号壕の入口に着きました。
「沖縄陸軍病院南風原(はえばる)壕群20号」 - 現地の看板より引用。20号は第二外科の中心的な壕で、患者の病室、手術場、勤務者室として使用されました。北側に隣接する19号や南側に隣接する21号と中央部で連結した貫通壕でした。
西口から十字路までの左側壁沿いには軍医と衛生兵、看護婦用の二段ベットが設けられ、薬品箱や医療器具などが置かれていました。4月中旬からは中央部の十字路が手術場となり、ランプのほの暗い灯りで、麻酔なしの手術が行われたのです。それは傷口からの炎症を防ぐため手足を切断する患部手術が殆どでした。十字路から21号につながる通路には戸板が並べられ、それが女子学徒たちの休憩所でした。十字路から東口までの右側壁沿いには幅約90センチメートルの棚が二段あり、入院患者のベットとして使われていました。
気管を切開し、喉からピューピューと息がもれる患者、下あごのない患者、火炎放射器で全身を焼かれた患者など、直視出来ないほどの重症を負った患者が収容されていました。
1994年から行われた考古学的発掘調査によって、壕の長さが約70m、高さほぼ1.8m、床幅1.8mで構築されたことや、東口外側で地中に隠すように埋められた多数の医薬品類が確認されています。壕の壁や天井にはツルハシで掘った跡が残り、床面にはほぼ90cmおきに坑木を設置する柱穴があります。坑木の一部は焼けて炭化していますが、現在も残っています。壁や天井も黒く焼けこげており、これは病院の南部撤退後、米軍の火炎放射攻撃によって壕内が火災状態になったためと見られています。なお十字路付近の天井部分には、朝鮮人兵士が書いたと考えられる文字が刻まれています。
- 南風原文化センター 2007年
壕の中を見学しようと思い、20号壕入口の受付を訪ねたのですが人影がありません。受付の案内をよく見てみると、内部の見学は完全予約制とのことでした。私は予約なしで壕を訪ねたため、今回は内部の様子を知ることは出来ませんでした。
仕方がないので、20号壕入口の案内板にある内部の写真を撮影しました。
20号壕入口の側には憲法九条の碑が建てられています。
近くに24号壕の入口がありましたが、まだ整備されていないので一般公開されていないようです。
20号壕入口にある看板の説明文を読んでいたとき、昔のことを思い出していました。
私がまだ小さな頃、実家の近くに小さな病院がありました。その病院の先生は小柄で年配の方でしたが、話し方が乱暴で対応も荒々しく、何かにつけすぐに注射を打ってくるものですから、子供の私にとっては恐怖以外の何者でもありませんでした。私が何か悪さをした際、親が「○○病院に連れて行って先生に看てもらうよ!」と言うとすぐに泣いて謝ったという程ですから、よほど怖かったのだろうと思います。
子供だったので記憶が曖昧なのですが、先生の口癖は「こんなもの怪我のうちに入らない」で、何で怪我をして病院に来ているのに怪我でないのか、と頭にきたことを覚えています。
後で知ったのですが、先生は元軍医で、戦時中相当な思いをしながら生き残った方だとのことでした。知り合いの話では、先生は滅多に酒を飲まないのだが、飲むと必ず当時のことを思い出していたようで、最後はいつも「助けることが出来ず済まなかった」と号泣していたそうです。子供の頃から怖い人、というイメージしかなかった先生でしたが、その話を初めて聞かされたときは申し訳ない気持ちで一杯でした。
20号壕の出口は黄金森野球場を向いています。彼らには今の世の中がどう見えているのでしょうか。
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