2007年08月13日
前から気になっていた当山の石畳道
浦添大公園は好きな場所の一つなのですが、公園に行く道の途中、前から気になっていた看板がありました。
大した看板ではないのですが、気になって仕方なかったので見てみると、当山の石畳道の案内板でした。

看板のすぐ側にある階段を下りていくと、目の前にかなり急勾配の石畳が見えてきます。

「史跡 当山の石畳道(浦添市指定文化財)」 - 現地の看板より引用。
琉球王国時代、王府は首里城と各間切の番所(地方の役所)を結ぶ宿道を、川には橋を架け、坂は石畳道に整備しました。この道は、首里城から浦添間切番所を通って宜野湾間切番所に至るいわゆる普天間街道で、牧港川の谷間に幅4.5m、長さ約200mの石畳道が残っています。馬が転ぶほどの急坂で「馬ドゥケーラシ」と呼ばれていました。
この道を通って国王は普天間宮へ参詣し、また各間切の年貢が首里城に運ばれました。宜野湾間切が新設された17世紀後半頃に整備されたと考えられていますが、橋は大正時代に改築されました。(昭和59年3月1日指定 浦添市教育委員会)
静かな風景の中、当時の石畳道がほぼ完全な形で残されています。石畳の表面が滑らかになっているのは、当時大勢の人や馬がそこを行き来して石畳を踏みしめていたからではないか、と言われています。

坂を下りきった場所は公園として整備されていました。

先へ進むと、再び上り坂となっています。

はじめは木橋だったが、大正時代に石橋に改築されたとのこと。米軍の砲撃を受けて一部破損した箇所はあるが、ほぼ原型をとどめています。

坂を登っていくと反対側に着きました。本当はこの先にも続きがあるようなのですが...

登ってきた道を戻ります。途中、石畳道の全景が見えましたので写真を一枚。道はS字型になっており、下の写真では分かりにくいかもしれませんが、左上には私が下ってきた急勾配の石畳道が一部見えています。

この一帯は戦時中激しい戦場であったにもかかわらず、石畳道がほぼ完全な状態で残っています。この一帯が嘉数高地と前田高地に囲まれ、死角となっていたことがその理由とされています。

急勾配の箇所を下から眺めると、馬が転ぶので馬ドゥケーラシを言われていた理由が分かるのではないかと思います。

当山の石畳道の場所はこちら。
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大した看板ではないのですが、気になって仕方なかったので見てみると、当山の石畳道の案内板でした。
看板のすぐ側にある階段を下りていくと、目の前にかなり急勾配の石畳が見えてきます。
「史跡 当山の石畳道(浦添市指定文化財)」 - 現地の看板より引用。琉球王国時代、王府は首里城と各間切の番所(地方の役所)を結ぶ宿道を、川には橋を架け、坂は石畳道に整備しました。この道は、首里城から浦添間切番所を通って宜野湾間切番所に至るいわゆる普天間街道で、牧港川の谷間に幅4.5m、長さ約200mの石畳道が残っています。馬が転ぶほどの急坂で「馬ドゥケーラシ」と呼ばれていました。
この道を通って国王は普天間宮へ参詣し、また各間切の年貢が首里城に運ばれました。宜野湾間切が新設された17世紀後半頃に整備されたと考えられていますが、橋は大正時代に改築されました。(昭和59年3月1日指定 浦添市教育委員会)
静かな風景の中、当時の石畳道がほぼ完全な形で残されています。石畳の表面が滑らかになっているのは、当時大勢の人や馬がそこを行き来して石畳を踏みしめていたからではないか、と言われています。
坂を下りきった場所は公園として整備されていました。
先へ進むと、再び上り坂となっています。
はじめは木橋だったが、大正時代に石橋に改築されたとのこと。米軍の砲撃を受けて一部破損した箇所はあるが、ほぼ原型をとどめています。
坂を登っていくと反対側に着きました。本当はこの先にも続きがあるようなのですが...
登ってきた道を戻ります。途中、石畳道の全景が見えましたので写真を一枚。道はS字型になっており、下の写真では分かりにくいかもしれませんが、左上には私が下ってきた急勾配の石畳道が一部見えています。
この一帯は戦時中激しい戦場であったにもかかわらず、石畳道がほぼ完全な状態で残っています。この一帯が嘉数高地と前田高地に囲まれ、死角となっていたことがその理由とされています。
急勾配の箇所を下から眺めると、馬が転ぶので馬ドゥケーラシを言われていた理由が分かるのではないかと思います。
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