2007年09月10日
沖縄陸軍病院南風原壕で思い出した事
南風原町にある黄金森(こがねもり)野球場の裏手には、戦時中病院として使用された沖縄陸軍病院南風原壕跡があります。

黄金森陸上競技場の駐車場にある小さな案内板を目印に壕跡へ向かいます。入口までは250m程度歩きます。

壕跡へ向かう途中、20号壕出口の前を通ります。壕入口に向かうため、更に奥へ歩いていきます。

壕入口を目指し、遊歩道を歩いていきます。

2007年6月より一般公開が始まった20号壕の入口に着きました。

「沖縄陸軍病院南風原(はえばる)壕群20号」 - 現地の看板より引用。
20号は第二外科の中心的な壕で、患者の病室、手術場、勤務者室として使用されました。北側に隣接する19号や南側に隣接する21号と中央部で連結した貫通壕でした。
西口から十字路までの左側壁沿いには軍医と衛生兵、看護婦用の二段ベットが設けられ、薬品箱や医療器具などが置かれていました。4月中旬からは中央部の十字路が手術場となり、ランプのほの暗い灯りで、麻酔なしの手術が行われたのです。それは傷口からの炎症を防ぐため手足を切断する患部手術が殆どでした。十字路から21号につながる通路には戸板が並べられ、それが女子学徒たちの休憩所でした。十字路から東口までの右側壁沿いには幅約90センチメートルの棚が二段あり、入院患者のベットとして使われていました。
気管を切開し、喉からピューピューと息がもれる患者、下あごのない患者、火炎放射器で全身を焼かれた患者など、直視出来ないほどの重症を負った患者が収容されていました。
1994年から行われた考古学的発掘調査によって、壕の長さが約70m、高さほぼ1.8m、床幅1.8mで構築されたことや、東口外側で地中に隠すように埋められた多数の医薬品類が確認されています。壕の壁や天井にはツルハシで掘った跡が残り、床面にはほぼ90cmおきに坑木を設置する柱穴があります。坑木の一部は焼けて炭化していますが、現在も残っています。壁や天井も黒く焼けこげており、これは病院の南部撤退後、米軍の火炎放射攻撃によって壕内が火災状態になったためと見られています。なお十字路付近の天井部分には、朝鮮人兵士が書いたと考えられる文字が刻まれています。
- 南風原文化センター 2007年
壕の中を見学しようと思い、20号壕入口の受付を訪ねたのですが人影がありません。受付の案内をよく見てみると、内部の見学は完全予約制とのことでした。私は予約なしで壕を訪ねたため、今回は内部の様子を知ることは出来ませんでした。
仕方がないので、20号壕入口の案内板にある内部の写真を撮影しました。






20号壕入口の側には憲法九条の碑が建てられています。

近くに24号壕の入口がありましたが、まだ整備されていないので一般公開されていないようです。

20号壕入口にある看板の説明文を読んでいたとき、昔のことを思い出していました。
私がまだ小さな頃、実家の近くに小さな病院がありました。その病院の先生は小柄で年配の方でしたが、話し方が乱暴で対応も荒々しく、何かにつけすぐに注射を打ってくるものですから、子供の私にとっては恐怖以外の何者でもありませんでした。私が何か悪さをした際、親が「○○病院に連れて行って先生に看てもらうよ!」と言うとすぐに泣いて謝ったという程ですから、よほど怖かったのだろうと思います。
子供だったので記憶が曖昧なのですが、先生の口癖は「こんなもの怪我のうちに入らない」で、何で怪我をして病院に来ているのに怪我でないのか、と頭にきたことを覚えています。
後で知ったのですが、先生は元軍医で、戦時中相当な思いをしながら生き残った方だとのことでした。知り合いの話では、先生は滅多に酒を飲まないのだが、飲むと必ず当時のことを思い出していたようで、最後はいつも「助けることが出来ず済まなかった」と号泣していたそうです。子供の頃から怖い人、というイメージしかなかった先生でしたが、その話を初めて聞かされたときは申し訳ない気持ちで一杯でした。
20号壕の出口は黄金森野球場を向いています。彼らには今の世の中がどう見えているのでしょうか。

沖縄陸軍病院南風原壕の場所はこちら
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黄金森陸上競技場の駐車場にある小さな案内板を目印に壕跡へ向かいます。入口までは250m程度歩きます。
壕跡へ向かう途中、20号壕出口の前を通ります。壕入口に向かうため、更に奥へ歩いていきます。
壕入口を目指し、遊歩道を歩いていきます。
2007年6月より一般公開が始まった20号壕の入口に着きました。
「沖縄陸軍病院南風原(はえばる)壕群20号」 - 現地の看板より引用。20号は第二外科の中心的な壕で、患者の病室、手術場、勤務者室として使用されました。北側に隣接する19号や南側に隣接する21号と中央部で連結した貫通壕でした。
西口から十字路までの左側壁沿いには軍医と衛生兵、看護婦用の二段ベットが設けられ、薬品箱や医療器具などが置かれていました。4月中旬からは中央部の十字路が手術場となり、ランプのほの暗い灯りで、麻酔なしの手術が行われたのです。それは傷口からの炎症を防ぐため手足を切断する患部手術が殆どでした。十字路から21号につながる通路には戸板が並べられ、それが女子学徒たちの休憩所でした。十字路から東口までの右側壁沿いには幅約90センチメートルの棚が二段あり、入院患者のベットとして使われていました。
気管を切開し、喉からピューピューと息がもれる患者、下あごのない患者、火炎放射器で全身を焼かれた患者など、直視出来ないほどの重症を負った患者が収容されていました。
1994年から行われた考古学的発掘調査によって、壕の長さが約70m、高さほぼ1.8m、床幅1.8mで構築されたことや、東口外側で地中に隠すように埋められた多数の医薬品類が確認されています。壕の壁や天井にはツルハシで掘った跡が残り、床面にはほぼ90cmおきに坑木を設置する柱穴があります。坑木の一部は焼けて炭化していますが、現在も残っています。壁や天井も黒く焼けこげており、これは病院の南部撤退後、米軍の火炎放射攻撃によって壕内が火災状態になったためと見られています。なお十字路付近の天井部分には、朝鮮人兵士が書いたと考えられる文字が刻まれています。
- 南風原文化センター 2007年
壕の中を見学しようと思い、20号壕入口の受付を訪ねたのですが人影がありません。受付の案内をよく見てみると、内部の見学は完全予約制とのことでした。私は予約なしで壕を訪ねたため、今回は内部の様子を知ることは出来ませんでした。
仕方がないので、20号壕入口の案内板にある内部の写真を撮影しました。
20号壕入口の側には憲法九条の碑が建てられています。
近くに24号壕の入口がありましたが、まだ整備されていないので一般公開されていないようです。
20号壕入口にある看板の説明文を読んでいたとき、昔のことを思い出していました。
私がまだ小さな頃、実家の近くに小さな病院がありました。その病院の先生は小柄で年配の方でしたが、話し方が乱暴で対応も荒々しく、何かにつけすぐに注射を打ってくるものですから、子供の私にとっては恐怖以外の何者でもありませんでした。私が何か悪さをした際、親が「○○病院に連れて行って先生に看てもらうよ!」と言うとすぐに泣いて謝ったという程ですから、よほど怖かったのだろうと思います。
子供だったので記憶が曖昧なのですが、先生の口癖は「こんなもの怪我のうちに入らない」で、何で怪我をして病院に来ているのに怪我でないのか、と頭にきたことを覚えています。
後で知ったのですが、先生は元軍医で、戦時中相当な思いをしながら生き残った方だとのことでした。知り合いの話では、先生は滅多に酒を飲まないのだが、飲むと必ず当時のことを思い出していたようで、最後はいつも「助けることが出来ず済まなかった」と号泣していたそうです。子供の頃から怖い人、というイメージしかなかった先生でしたが、その話を初めて聞かされたときは申し訳ない気持ちで一杯でした。
20号壕の出口は黄金森野球場を向いています。彼らには今の世の中がどう見えているのでしょうか。
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