2007年09月21日
西地区緑地で国標を見る
燐鉱石貯蔵庫跡の隣にある西地区緑地という公園の中には、北大東島が日本の領土であることを示す国標が建てられています。

「国標建立の経緯」 - 現地の看板より引用。
明治10年頃から、日清両国の間では琉球の所属が公然と論議され、一時は戦争をも辞さない程の険悪な状態になっていた。明治18年の天津条約で一応の危機は回避されたものの、それ以来明治政府は琉球諸島が国防上極めて重要であるとし、その東に位置する未だ所属不明瞭のまま放置されている大東島についても早急に調査して、日本の領土として明確にしておく必要があった。
また琉球諸島が東洋航路の要地に位置している関係上、18~19世紀の頃から西洋諸国などの艦船の往来が次第に激しくなりつつある中で、領土主権を巡って他国との摩擦を引き起こさないためにも、国際的にその所属を明確にしておく必要があった。そうした背景があって、政府は無人島である北大東島の調査をときの沖縄県令(当時は知事と呼ばず県令と呼んでいた。)西村捨三に命じたのである。そして明治18年8月29日に南大東島に、翌々日の31日には北大東島に木柱の国標が建立され、北大東島が正式に沖縄県の管轄下であり、日本の領土であることを明確にしたのである。
また、このときの国標建立のための渡航者、石澤兵吾ほか5名が北大東島の最初の公式渡航であり、初めての上陸者である。
当時建立された国標は木柱だったそうですが、朽腐のため昭和12年にコンクリートで再立されたとのことです。なお写真にある現在の国標は、平成16年3月31日に再々建されたものです。

国標は西地区緑地という公園の一角に建立されており、海の向こう側に見える南大東島にも同じような国標があるとのことです。

日本の領土であることを示す国標は、全国でも南北大東島にしか存在しないとのことです。国標を建立してまで領土を主張したということは、この島の存在は非常に重要だったという訳ですね。

西地区緑地の場所はこちら
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「国標建立の経緯」 - 現地の看板より引用。明治10年頃から、日清両国の間では琉球の所属が公然と論議され、一時は戦争をも辞さない程の険悪な状態になっていた。明治18年の天津条約で一応の危機は回避されたものの、それ以来明治政府は琉球諸島が国防上極めて重要であるとし、その東に位置する未だ所属不明瞭のまま放置されている大東島についても早急に調査して、日本の領土として明確にしておく必要があった。
また琉球諸島が東洋航路の要地に位置している関係上、18~19世紀の頃から西洋諸国などの艦船の往来が次第に激しくなりつつある中で、領土主権を巡って他国との摩擦を引き起こさないためにも、国際的にその所属を明確にしておく必要があった。そうした背景があって、政府は無人島である北大東島の調査をときの沖縄県令(当時は知事と呼ばず県令と呼んでいた。)西村捨三に命じたのである。そして明治18年8月29日に南大東島に、翌々日の31日には北大東島に木柱の国標が建立され、北大東島が正式に沖縄県の管轄下であり、日本の領土であることを明確にしたのである。
また、このときの国標建立のための渡航者、石澤兵吾ほか5名が北大東島の最初の公式渡航であり、初めての上陸者である。
当時建立された国標は木柱だったそうですが、朽腐のため昭和12年にコンクリートで再立されたとのことです。なお写真にある現在の国標は、平成16年3月31日に再々建されたものです。
国標は西地区緑地という公園の一角に建立されており、海の向こう側に見える南大東島にも同じような国標があるとのことです。
日本の領土であることを示す国標は、全国でも南北大東島にしか存在しないとのことです。国標を建立してまで領土を主張したということは、この島の存在は非常に重要だったという訳ですね。
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