2008年05月27日
首里城公園の風景(その7)
広福門をくぐると、下之御庭(しちゃぬうなー)という広場に出ます。そしてこの広場で首里森御獄(すいむいうたき)と奉神門(ほうしんもん)を見ることができます。

下之御庭 - 現地の看板より引用
広福門を抜けたこの広場を下之御庭(しちゃぬうなー)といいます。首里城正殿前の広場である御庭(うなー)に対し、「下の庭」という意味です。正殿前で行われる様々な儀式の控えの場でした。この広場周辺には系図座・用物座や京の内、首里森御獄や奉神門があります。
奉神門は首里城正殿のある御庭に入るための最後の門です。

奉神門 - 現地の看板より引用
奉神とは「神をうやまう」という意味です。奉神門は別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいいます。向かって左側は薬や茶、タバコなどを扱った「納殿(なでん)」、右側は城内の儀式などに使われた「君誇(きみほこり)」という部屋になっていました。3つの入り口のうち、中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)など、身分の高い人だけが通ることができました。奉神門は1992年(平成4年)に復元されました。
また下之御庭の中央には、首里城内で最も重要な拝所のひとつである首里森御獄があります。

首里森御獄 - 現地の看板より引用
首里森(すいむい)とは首里城の別称で、御獄(うたき)とは沖縄の聖地または拝所のことです。琉球の神話では、この御獄は神が造った聖地であり、首里城内でもっとも格式の高い拝所のひとつです。城内にはここを含めて「十獄(とたけ)」と呼ばれる十カ所の拝所があったと言われています。
国王が城外の寺社に出かけるときにこの御獄で祈りをささげ、神女たちが多くの儀礼を行いました。石積内の植物はガジュマルやクロツグです。首里森御獄は1997年(平成9年)に復元されました。
現在は奉神門から首里城正殿に入る際が有料となっています。広福門のチケット販売所で入場券を購入して奉神門へ向かいます。昔なら身分の高い人しか通ることが許されなかった中央入口から見えたものは....

奉神門や首里森御獄の場所はこちら

「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
下之御庭 - 現地の看板より引用広福門を抜けたこの広場を下之御庭(しちゃぬうなー)といいます。首里城正殿前の広場である御庭(うなー)に対し、「下の庭」という意味です。正殿前で行われる様々な儀式の控えの場でした。この広場周辺には系図座・用物座や京の内、首里森御獄や奉神門があります。
奉神門は首里城正殿のある御庭に入るための最後の門です。
奉神門 - 現地の看板より引用奉神とは「神をうやまう」という意味です。奉神門は別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいいます。向かって左側は薬や茶、タバコなどを扱った「納殿(なでん)」、右側は城内の儀式などに使われた「君誇(きみほこり)」という部屋になっていました。3つの入り口のうち、中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)など、身分の高い人だけが通ることができました。奉神門は1992年(平成4年)に復元されました。
また下之御庭の中央には、首里城内で最も重要な拝所のひとつである首里森御獄があります。
首里森御獄 - 現地の看板より引用首里森(すいむい)とは首里城の別称で、御獄(うたき)とは沖縄の聖地または拝所のことです。琉球の神話では、この御獄は神が造った聖地であり、首里城内でもっとも格式の高い拝所のひとつです。城内にはここを含めて「十獄(とたけ)」と呼ばれる十カ所の拝所があったと言われています。
国王が城外の寺社に出かけるときにこの御獄で祈りをささげ、神女たちが多くの儀礼を行いました。石積内の植物はガジュマルやクロツグです。首里森御獄は1997年(平成9年)に復元されました。
現在は奉神門から首里城正殿に入る際が有料となっています。広福門のチケット販売所で入場券を購入して奉神門へ向かいます。昔なら身分の高い人しか通ることが許されなかった中央入口から見えたものは....
奉神門や首里森御獄の場所はこちら
「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
2008年05月23日
首里城公園の風景(その6)
漏刻門をくぐった先の広場で日影台と万国津梁の鐘を見た後、次の広福門(こうふくもん)に進みます。

広福門 - 現地パンフレットより引用
東側には士族の戸籍や財産の管理を行ったり、それらを巡る争い事などを調停した「大与座(おおくみざ)」が、西側には寺や神社を管理し、宗廟祭典(祖先を祭る行事)を司った「寺社座(じしゃざ)」がありました。別名「長御門(ながうじょう)」や「中御門(なかうじょう)」と呼ばれていました。広福は「鎮まる」の名詞で、鎮まるには「長い」という意味もあることから、「中山は治世よく永しえに」の願いを込めて広福門と名付けられたと考えられています。
明治時代、第一尋常小学校建設のために取り壊されましたが、古い写真や発掘調査で出土した礎石などをもとに復元されました。現在は大与座側が首里城正殿の入場チケット販売所に、寺社座側がトイレになっています。
前回の記事で、日影台の背景となっていたのが広福門です。

聞いたところでは、この広福門に関する資料が極端に少ないそうで、古い写真などを手がかりに復元されたものの、未だに詳細が分かっていないところも多いのだそうです。

首里城正殿はもうすぐです。
広福門の場所はこちら

「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
広福門 - 現地パンフレットより引用東側には士族の戸籍や財産の管理を行ったり、それらを巡る争い事などを調停した「大与座(おおくみざ)」が、西側には寺や神社を管理し、宗廟祭典(祖先を祭る行事)を司った「寺社座(じしゃざ)」がありました。別名「長御門(ながうじょう)」や「中御門(なかうじょう)」と呼ばれていました。広福は「鎮まる」の名詞で、鎮まるには「長い」という意味もあることから、「中山は治世よく永しえに」の願いを込めて広福門と名付けられたと考えられています。
明治時代、第一尋常小学校建設のために取り壊されましたが、古い写真や発掘調査で出土した礎石などをもとに復元されました。現在は大与座側が首里城正殿の入場チケット販売所に、寺社座側がトイレになっています。
前回の記事で、日影台の背景となっていたのが広福門です。
聞いたところでは、この広福門に関する資料が極端に少ないそうで、古い写真などを手がかりに復元されたものの、未だに詳細が分かっていないところも多いのだそうです。
首里城正殿はもうすぐです。
広福門の場所はこちら
「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
2008年05月20日
首里城公園の風景(その5)
瑞泉門をくぐり左手に曲がると、漏刻門(ろうこくもん)が見えます。このとき漏刻門は再塗装工事が行われていましたので、門の全景を見ることはできませんでした。

漏刻門 - 現地の看板より引用
漏刻とは中国語で水時計という意味です。この門の上の櫓の中に水で時計をはかる水槽(水時計)が設置されていました。門をすぎた広場には日時計があり、その二つの時計で時刻をはかり、太鼓を叩いて時を知らせました。別名「かご居せ御門(かごいせうじょう)」ともいいます。駕籠で登城することを許されていた身分の高い役人も、国王に敬意を表し、この門で駕籠から下りたということから、このように呼ばれました。創建は15世紀頃。老朽化のため昭和初期には撤去されていたものを1992年(平成4年)に復元しました。
国営沖縄記念公園事務所
漏刻門から那覇市、浦添市内方面を眺めます。手前に見える門は首里城の出口にあたる久慶門で、奥側に見えているのは首里城の正門にあたる歓会門です。

漏刻門をくぐった先は広場となっており、そこには漏刻門の水時計と共に時を計り続けた日影台(にちえいだい)という日時計が設置されています。

日影台 - 現地の看板より引用
漏刻が水時計であるのに対し、日影台は日時計のことです。琉球王国時代、首里城では日時計を用いて正午およびその前後の時刻をはかり、また漏刻で詳しい時刻をはかったと言われています。日影台は十二支が刻まれた時刻板(石の円盤)に銅製の棒が取り付けられ、その日影によって時刻をはかるようになっていたと推測されています。
沖縄戦で破壊されたものを、2000年(平成12年)にかつての形態に復元しました。日影台の示す時(地方太陽時)は、日本標準時に対して、約30分遅れています。
国立沖縄記念公園事務所
また広場には、首里城正殿の前にかけられていた「万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘」が設置されている供屋(ともや)があります。

万国津梁の鐘と供屋 - 現地の看板より引用
万国津梁の鐘は1458年に鋳造され、首里城正殿の前にかけられていた銅鐘です。万国津梁(ばんこくしんりょう)とは「世界の架け橋」という意味です。鐘には「琉球王国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国と日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である」という主旨の銘文が刻まされており、往事の海洋王国としての誇らしい心意気が示されています。ここに展示している鐘は沖縄県立博物館所蔵の実物をもとに、鋳造当時の状態に複製したものです。
建物は供屋という施設ですが、往事の具体的な使われ方は分かっていません。いずれも2000年(平成12年)に復元されました。
国立沖縄記念公園事務所
供屋の中には万国津梁の鐘が設置されていました。

鐘の表面には万国津梁の銘文が刻まれています。沖縄県庁の第一知事応接室には、この銘文が書かれた屏風がおかれていることで有名です。

長年沖縄に住んでいますが、勉強させられるものばかりです....
漏刻門や日影台、供屋の場所はこちら

「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
漏刻門 - 現地の看板より引用漏刻とは中国語で水時計という意味です。この門の上の櫓の中に水で時計をはかる水槽(水時計)が設置されていました。門をすぎた広場には日時計があり、その二つの時計で時刻をはかり、太鼓を叩いて時を知らせました。別名「かご居せ御門(かごいせうじょう)」ともいいます。駕籠で登城することを許されていた身分の高い役人も、国王に敬意を表し、この門で駕籠から下りたということから、このように呼ばれました。創建は15世紀頃。老朽化のため昭和初期には撤去されていたものを1992年(平成4年)に復元しました。
国営沖縄記念公園事務所
漏刻門から那覇市、浦添市内方面を眺めます。手前に見える門は首里城の出口にあたる久慶門で、奥側に見えているのは首里城の正門にあたる歓会門です。
漏刻門をくぐった先は広場となっており、そこには漏刻門の水時計と共に時を計り続けた日影台(にちえいだい)という日時計が設置されています。
日影台 - 現地の看板より引用漏刻が水時計であるのに対し、日影台は日時計のことです。琉球王国時代、首里城では日時計を用いて正午およびその前後の時刻をはかり、また漏刻で詳しい時刻をはかったと言われています。日影台は十二支が刻まれた時刻板(石の円盤)に銅製の棒が取り付けられ、その日影によって時刻をはかるようになっていたと推測されています。
沖縄戦で破壊されたものを、2000年(平成12年)にかつての形態に復元しました。日影台の示す時(地方太陽時)は、日本標準時に対して、約30分遅れています。
国立沖縄記念公園事務所
また広場には、首里城正殿の前にかけられていた「万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘」が設置されている供屋(ともや)があります。
万国津梁の鐘と供屋 - 現地の看板より引用万国津梁の鐘は1458年に鋳造され、首里城正殿の前にかけられていた銅鐘です。万国津梁(ばんこくしんりょう)とは「世界の架け橋」という意味です。鐘には「琉球王国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国と日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である」という主旨の銘文が刻まされており、往事の海洋王国としての誇らしい心意気が示されています。ここに展示している鐘は沖縄県立博物館所蔵の実物をもとに、鋳造当時の状態に複製したものです。
建物は供屋という施設ですが、往事の具体的な使われ方は分かっていません。いずれも2000年(平成12年)に復元されました。
国立沖縄記念公園事務所
供屋の中には万国津梁の鐘が設置されていました。
鐘の表面には万国津梁の銘文が刻まれています。沖縄県庁の第一知事応接室には、この銘文が書かれた屏風がおかれていることで有名です。
長年沖縄に住んでいますが、勉強させられるものばかりです....
漏刻門や日影台、供屋の場所はこちら
「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
2008年05月17日
首里城公園の風景(その4)
歓会門をくぐると、正面右側にいくつかの建築物が見えてきます。先に進むにはこの石段を上がるようです。

石段の上には瑞泉門(ずいせんもん)が見えます。

石段を上る途中、石段右側に視線を移すと....

国王一族の飲料水として利用されていた湧き水である、龍樋(りゅうひ)を見ることが出来ます。

龍樋、冊封七碑(さっぽうしちひ)と瑞泉門 - 現地の看板より引用
石段途中の右手には泉があります。龍の口から水が湧き出ていることから、龍碑という名があります。龍の石彫刻は今から約500年前の1523年に中国からもたらされた当時のままのものです。龍碑の水は王宮の飲み水として使われました。また、中国からの使者「冊封使(さっぽうし)」が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった宿舎「天使館(てんしかん)」まで、毎日この水が運ばれたといいます。
この周辺の石碑は、龍樋の水の清らかさを称賛した冊封使たちの書を刻んだもので、冊封七碑と呼ばれています。沖縄戦でほとんどが破壊されましたが、拓本をもとに1996年(平成8年)に復元されました。
石段上の門は瑞泉門で、その名は龍樋の水が瑞泉(立派な、めでたい泉の意味)と讃えられたことに由来します。別名「ひかわ御門(うじょう)」とも言います。「ひ」は樋(とい)のことで、「かわ(川)」は沖縄では井戸や泉のことを指します。瑞泉門は歓会門とは違い、双璧の石門の上に櫓がのっています。この形式は日本本土の主な城の門と共通しています。
創建は1470年頃で、沖縄戦で焼失しましたが、1992年(平成4年)に復元されました。
龍樋を正面から見てみます。約500年前の龍の石彫刻から、今でも水が湧き出ています。

瑞泉門にきました。次に進んでみたいと思います。

長年沖縄に住んでいながら、知らない建築物だらけです....
瑞泉門、龍樋の場所はこちら

「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
石段の上には瑞泉門(ずいせんもん)が見えます。
石段を上る途中、石段右側に視線を移すと....
国王一族の飲料水として利用されていた湧き水である、龍樋(りゅうひ)を見ることが出来ます。
龍樋、冊封七碑(さっぽうしちひ)と瑞泉門 - 現地の看板より引用石段途中の右手には泉があります。龍の口から水が湧き出ていることから、龍碑という名があります。龍の石彫刻は今から約500年前の1523年に中国からもたらされた当時のままのものです。龍碑の水は王宮の飲み水として使われました。また、中国からの使者「冊封使(さっぽうし)」が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった宿舎「天使館(てんしかん)」まで、毎日この水が運ばれたといいます。
この周辺の石碑は、龍樋の水の清らかさを称賛した冊封使たちの書を刻んだもので、冊封七碑と呼ばれています。沖縄戦でほとんどが破壊されましたが、拓本をもとに1996年(平成8年)に復元されました。
石段上の門は瑞泉門で、その名は龍樋の水が瑞泉(立派な、めでたい泉の意味)と讃えられたことに由来します。別名「ひかわ御門(うじょう)」とも言います。「ひ」は樋(とい)のことで、「かわ(川)」は沖縄では井戸や泉のことを指します。瑞泉門は歓会門とは違い、双璧の石門の上に櫓がのっています。この形式は日本本土の主な城の門と共通しています。
創建は1470年頃で、沖縄戦で焼失しましたが、1992年(平成4年)に復元されました。
龍樋を正面から見てみます。約500年前の龍の石彫刻から、今でも水が湧き出ています。
瑞泉門にきました。次に進んでみたいと思います。
長年沖縄に住んでいながら、知らない建築物だらけです....
瑞泉門、龍樋の場所はこちら
「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
2008年05月16日
首里城公園の風景(その3)
園比屋武御獄石門を見学した後、首里城に入るため、首里城の正門である歓会門(かんかいもん)に向かいます。

勸會門 - 現地の看板より引用
首里城の城郭内に入る第一の正門。中国皇帝の使者である「冊封使(さっぽうし)」などを歓迎するという意味でこの名がつけられました。「あまへ御門(うじょう)」とも言います。「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味しており、「歓会」はその漢訳です。
門の両側の一対の獅子像「シーサー」は魔除けの意味を持っています。1500年前後創建、沖縄戦(1945年)で焼失し、1974年(昭和49年)に復元されました。
国営沖縄記念公園事務所
園比屋武御獄石門はこじんまりとした小さな建築物でしたが、歓会門は首里城の正門だけあって、なかなかのものです。入り口では魔除けのシーサーが入場者を迎えてくれます。

首里城跡 - 現地の看板より引用
首里城は1429年から1879年まで、琉球王国の国王の居城でした。王城は琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けました。発掘調査の結果、首里城は14世紀の末頃までには築かれていたことが明らかになっています。
首里城は地形を巧みに活用して、内郭と外郭に分けて築かれています。城壁は琉球石灰岩の切石で築かれ、その総延長は約1080メートルです。城壁の高さは6メートルから15メートルにもなり、その厚さはおよそ3メートルです。歓会門が大手門(正門)で西側城壁にあります。
城内には正殿、北殿、南殿などの重要な建物が御庭(うなー)を囲んであり、正殿は1925年に国宝に指定されていました。しかしこれらの建物群は沖縄戦ですべて焼失し、1972年から復元整備が実施されています。
国指定史跡
1972年5月15日
沖縄県教育委員会
いよいよ首里城に入ります。

なぜか緊張してきます。
歓会門の場所はこちら

「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
勸會門 - 現地の看板より引用首里城の城郭内に入る第一の正門。中国皇帝の使者である「冊封使(さっぽうし)」などを歓迎するという意味でこの名がつけられました。「あまへ御門(うじょう)」とも言います。「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味しており、「歓会」はその漢訳です。
門の両側の一対の獅子像「シーサー」は魔除けの意味を持っています。1500年前後創建、沖縄戦(1945年)で焼失し、1974年(昭和49年)に復元されました。
国営沖縄記念公園事務所
園比屋武御獄石門はこじんまりとした小さな建築物でしたが、歓会門は首里城の正門だけあって、なかなかのものです。入り口では魔除けのシーサーが入場者を迎えてくれます。
首里城跡 - 現地の看板より引用首里城は1429年から1879年まで、琉球王国の国王の居城でした。王城は琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けました。発掘調査の結果、首里城は14世紀の末頃までには築かれていたことが明らかになっています。
首里城は地形を巧みに活用して、内郭と外郭に分けて築かれています。城壁は琉球石灰岩の切石で築かれ、その総延長は約1080メートルです。城壁の高さは6メートルから15メートルにもなり、その厚さはおよそ3メートルです。歓会門が大手門(正門)で西側城壁にあります。
城内には正殿、北殿、南殿などの重要な建物が御庭(うなー)を囲んであり、正殿は1925年に国宝に指定されていました。しかしこれらの建物群は沖縄戦ですべて焼失し、1972年から復元整備が実施されています。
国指定史跡
1972年5月15日
沖縄県教育委員会
いよいよ首里城に入ります。
なぜか緊張してきます。
歓会門の場所はこちら
「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
2008年05月15日
首里城公園の風景(その2)
守礼門をくぐると、一番始めに目に入るのが園比屋武御獄石門(そのひゃんうたきいしもん)です。

文字通り、木の扉以外は琉球石灰岩でできています。先の大戦で大破したのですが、復元修理を経て今もその姿を残しています。

そう大きな石門ではありませんが、2000年12月2日に琉球王国のグスク及び関連遺産群の一つとして、世界遺産リストに登録されました。

園比屋武御獄石門 - 現地の看板より引用
石門とその奥の森を園比屋武御獄といい、王府の祈願所であった。石門は神社でいう拝殿にあたるが、本殿に相当する建物はなく、石門の後ろに広がる森がそれにあたるという。石門の創建は尚真王時代の1519年で、1933年には旧国宝に指定されたが、先の沖縄戦で大破、1957年に復元された後に解体修理し、1986年に完成した。
石門は竹富島の西塘(にしとう)の作と伝えられる。石材は主に琉球石灰岩を用い、板葺唐破風屋根(いたぶきからはふうやね)を表す。屋根の飾りなどに日本と中国の様式を合わせて用いた、沖縄独特の優れた石造建築である。
1955年11月29日 沖縄県指定史跡
1972年5月15日 国指定建造物
2000年12月2日 ユネスコ世界遺産リスト登録
沖縄県教育委員会
石門の裏側には、本殿にあたるという森が広がっています。

あまり大きくない石門なので目立ちませんが、立派な世界遺産ですので、行かれる際はぜひ見学を。
園比屋武御獄石門の場所はこちら

「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
文字通り、木の扉以外は琉球石灰岩でできています。先の大戦で大破したのですが、復元修理を経て今もその姿を残しています。
そう大きな石門ではありませんが、2000年12月2日に琉球王国のグスク及び関連遺産群の一つとして、世界遺産リストに登録されました。
園比屋武御獄石門 - 現地の看板より引用石門とその奥の森を園比屋武御獄といい、王府の祈願所であった。石門は神社でいう拝殿にあたるが、本殿に相当する建物はなく、石門の後ろに広がる森がそれにあたるという。石門の創建は尚真王時代の1519年で、1933年には旧国宝に指定されたが、先の沖縄戦で大破、1957年に復元された後に解体修理し、1986年に完成した。
石門は竹富島の西塘(にしとう)の作と伝えられる。石材は主に琉球石灰岩を用い、板葺唐破風屋根(いたぶきからはふうやね)を表す。屋根の飾りなどに日本と中国の様式を合わせて用いた、沖縄独特の優れた石造建築である。
1955年11月29日 沖縄県指定史跡
1972年5月15日 国指定建造物
2000年12月2日 ユネスコ世界遺産リスト登録
沖縄県教育委員会
石門の裏側には、本殿にあたるという森が広がっています。
あまり大きくない石門なので目立ちませんが、立派な世界遺産ですので、行かれる際はぜひ見学を。
園比屋武御獄石門の場所はこちら
「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
2008年05月13日
首里城公園の風景(その1)
先日、仕事で沖縄に来た県外の友人を連れ、首里城公園に行ってきました。
首里城公園のインフォメーションセンターである首里杜館(すいむいかん)を出発すると、最初に登場するのは有名な守礼門。

旧首里城守礼門 - 現地の看板より引用
守礼門はかつての中山門に続く首里城第二の坊門で、琉球王国時代の尚清王代(1527年~1555年)に創建されたと伝えられている。当初、「待賢」、ついで「首里」の扁額が掲げられたことで、「待賢門」、「首里門」と呼ばれていたという。尚永王代(1573年~1588年)に「守禮之邦」の扁額が作られ、冊封使の滞在中だけ掲げていたが、尚質王代(1648年~1668年)から常時掲げられるようになり、「守礼門」と呼ばれるようになったと伝えられている。
建築様式は中国牌楼の流れをくむ装飾建築と言われている。構造は三間重層入母屋造で、屋根は赤瓦の本瓦葺き、高さ7.05メートル両端柱間7.94メートルである。昭和8年に国宝に指定されていたが、去る沖縄戦で破壊された。現在の守礼門は昭和33年に復元されたものである。
沖縄県指定有形文化財(建造物) 昭和47年5月12日指定
沖縄県教育委員会
しかし、首里城に行ったのは何年ぶりだろうか。沖縄に住んでいる私としては、あまりにも近くにあるため逆に行く機会がなかった訳で....

しかし、こうして見学してみると、沖縄に住んでいながら初めて見るものだらけでした。灯台もと暗しとはこのことでしょうか。

さて、首里城公園の中に入ってみたいと思います。
守礼門の場所はこちら

「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
首里城公園のインフォメーションセンターである首里杜館(すいむいかん)を出発すると、最初に登場するのは有名な守礼門。
旧首里城守礼門 - 現地の看板より引用守礼門はかつての中山門に続く首里城第二の坊門で、琉球王国時代の尚清王代(1527年~1555年)に創建されたと伝えられている。当初、「待賢」、ついで「首里」の扁額が掲げられたことで、「待賢門」、「首里門」と呼ばれていたという。尚永王代(1573年~1588年)に「守禮之邦」の扁額が作られ、冊封使の滞在中だけ掲げていたが、尚質王代(1648年~1668年)から常時掲げられるようになり、「守礼門」と呼ばれるようになったと伝えられている。
建築様式は中国牌楼の流れをくむ装飾建築と言われている。構造は三間重層入母屋造で、屋根は赤瓦の本瓦葺き、高さ7.05メートル両端柱間7.94メートルである。昭和8年に国宝に指定されていたが、去る沖縄戦で破壊された。現在の守礼門は昭和33年に復元されたものである。
沖縄県指定有形文化財(建造物) 昭和47年5月12日指定
沖縄県教育委員会
しかし、首里城に行ったのは何年ぶりだろうか。沖縄に住んでいる私としては、あまりにも近くにあるため逆に行く機会がなかった訳で....
しかし、こうして見学してみると、沖縄に住んでいながら初めて見るものだらけでした。灯台もと暗しとはこのことでしょうか。
さて、首里城公園の中に入ってみたいと思います。
守礼門の場所はこちら
「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
2008年05月12日
六本木ヒルズの風景
かなり前のネタの続きですが。
東京ミッドタウンを後にして、次に向かった場所はというと.... 六本木ヒルズ!

その頃はちょうど桜が満開でしたので、六本木ヒルズ森タワーと桜がいい具合に重なってくれます。

森タワー入り口付近も本当に沢山の花が咲いていました。

早速、52階にある東京シティビューに上ってみます。

東京シティビューから東京タワーを眺めたところです。どちらが高いのかよく分かりませんが、東京タワーを見下ろしているような気がします。

他にもいろいろな風景を眺めることが出来ました。



しかし.... こんな凄い建物、どうやって建てたんでしょうねえ。(笑)


「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!
東京ミッドタウンを後にして、次に向かった場所はというと.... 六本木ヒルズ!
その頃はちょうど桜が満開でしたので、六本木ヒルズ森タワーと桜がいい具合に重なってくれます。
森タワー入り口付近も本当に沢山の花が咲いていました。
早速、52階にある東京シティビューに上ってみます。
東京シティビューから東京タワーを眺めたところです。どちらが高いのかよく分かりませんが、東京タワーを見下ろしているような気がします。
他にもいろいろな風景を眺めることが出来ました。
しかし.... こんな凄い建物、どうやって建てたんでしょうねえ。(笑)

「沖縄の風景」いかがでしたか?
気に入って頂けましたら、こちらをポチッとクリックお願いします!


日本の地域ブログ大集合!津々浦々の美味い・楽しいがここに!
特に意味はありませんが。