豊見城市が一望出来る高台に、先の大戦における沖縄戦で日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部が置かれた
(通称)旧海軍司令部壕があります。
当時の司令部壕は全長450メートルだったと言われていますが、昭和45年、観光開発事業団により約280メートル分が復元され、現在は公園施設として整備されています。
施設内には復元された壕の他、発見された遺品や写真などが展示された資料館があります。
資料館には当時の様子を物語る様々な展示物がありますが、個人的には山田中佐という方が息子に残したと思われる遺書には胸が詰まる思いでした。
壕の殆どはカマボコ型をしており、掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐えられるよう造られています。持久戦を想定していたと言われています。
幕僚室には、幕僚が手榴弾で自決した際の破片の跡が、壁に生々しく残されています。
壕の中は入り組んだ迷路のようになっています。
当時、壕の中には約4000人の兵士が収容されており、壕のあまりの狭さに立ったまま睡眠休息をとったと言われています。
兵士は武器らしい武器すら持っていない状況の中、この出口から外へ出撃していき、その殆どは帰ってこなかったとのことです。
最終的に司令部は米軍に取り囲まれ、退却不可能な状態に追い込まれます。その後必死の抵抗を試みるも、米軍の猛攻撃により、司令官
大田實海軍少将ほか幹部6名は昭和20年6月13日、壕内で拳銃自殺を遂げたと言われています。
そして死の直前、司令官であった大田實海軍少将は、この司令官室から海軍次官に宛て、あの
062016電報を打電したと言われています。
062016電 (以下は電報の現代語訳)
昭和20年6月6日20時16分発。
沖縄根拠地隊司令官より海軍次官へ。
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては県知事より報告されるべきですが、県は既に通信する力は無く、三二軍(沖縄守備軍)もまた通信する力がないと認められますので、私は県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことが出来ないので、代わって緊急にお知らせ致します。
沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては殆ど顧みる余裕もありませんでした。しかし私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためにかり出され、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下で彷徨い、風雨にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも若い女性は進んで軍に身を捧げ、看護婦、炊事婦はもとより砲弾運びや斬り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されるからと、親子が生き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦に至っては軍の移動に際し、衛生兵が既に出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定されたとき、輸送力のない者は夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやって来て以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約を強いられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえも全てが焼けてしまい、食べ物も六月一杯を支えるだけということです。沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。
下は沖縄守備第32軍首脳の集合写真
1 海軍根拠地隊司令官 大田 實 少将
2 第32軍司令官 牛島 満 中将
3 参謀長 長 勇 中将
大田少将が海軍次官に宛てた電報には、天皇陛下万歳の言葉も戦線の状況報告も無く、この地上戦で悲惨な目に遭った沖縄県民の苦難の様子が綴られ、平和が訪れたあかつきには沖縄県民に格別の配慮をして頂きたいとの要望で締めくくられています。
折しも今日29日は
教科書検定意見撤回を求める県民大会が開催されます。
今回、事の発端となった住民の集団自決に軍の関与があったのかどうか、様々な証言があり意見が分かれるところですのでここでは触れませんが、県民大会が開催される程の事態にまで深刻化しているこの状況を、大田少将はどう思われているのでしょうか。
(補足)大田少将の最終階級は海軍中将とのことです。
旧海軍司令部壕の場所はこちら