宮古島市、かつて池間、狩俣、大神、島尻の四邑を治めた四島の主の墓
宮古島に行ってきたわけですが....
宮古島の歴史に詳しい人なら、
知らぬ者はいないといわれるほど有名な、
四島の主の墓が狩俣にあります。
四島の主の墓は、
宮古島市平良から狩俣へ向かう、
県道230号線沿いにあるのですが、
道路標識の文字が薄くて読みづらいので、
気づかずに通り過ぎる人もいるとか....
県道230号線から脇道に入り、
上り坂を100メートルほど歩くと、
四島の主の墓の石垣が見えてきます。
四島の主の墓
現在、狩俣には「四島の主の墓」といわれている墓が四ヶ所ある。この墓はそのうちの一つである。この墓は島尻、大神、狩俣、池間の四邑が遠望できる丘陵上にある。この墓の構造はツガ墓に似ており、周囲には石積みの外郭が二重にめぐらされ、南々西に向かって一枚岩をのせたアーチ門が築かれている。又、墓室は一室で墓口が2つ設けられている。この墓は近年まで「四島の主」の子孫により代々使用されてきたと伝えられている。「四島の主」とは狩俣、島尻、大神、池間邑の支配者の俗称で、「雍正旧記」には「昔、狩俣村四島の親童名百佐盛と申す人は狩俣、島尻、大神、池間合わせて四ヶ村壱人にてかけ候に付き、四島之親と為申由候」と記されている。又、「四島の主のあやぐ」には「何からが如何からが親なたよ、墨からど筆からど親なたよ」と歌われており、「四島の主」は文筆にすぐれていたことがうかがわれる。
「四島の主」は仲宗根豊見親の支配下にあって仁政を施したが、その業績としては狩俣・島尻を結ぶ「渡地橋」築造のほか、農道の改修、狩俣・平良間の休憩所設置及び井戸の掘削等が伝えられている。
平良市(現宮古島市)指定文化財
昭和53年(1978年)3月6日 指定
四島の主の墓の入り口は、
大人が少しかがんで入るほどの高さです。
墓の入り口から中に入ると、
ちょうど正面の位置に墓口らしき石垣が見えます。
四島の主の墓の案内板では、
墓口は2つあるとなっているのですが、
石垣が崩れた個所を見ても、
墓口が2つあるかどうかは確認できません。
他に墓口のような場所はないようですので、
この場所で間違いないと思うのですが....
ちなみにこちらのお墓ですが、
四島の主の子孫が最近まで実際に使っていたとか。
県道230号線の目立たない場所にある、
四島の主の墓ですが、
宮古島の歴史の中でも特に有名な一人ですので、
目の前に立つと感慨深いですね。
四島の主の墓の場所はだいたいこの辺り
「沖縄の風景」いかがでしたか? すべての出愛(出会い)に感謝です。
気に入って頂けましたら、
下のボタンをポチッとクリックお願いします!
関連記事