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渡嘉敷島、昭和20年3月28日の出来事
渡嘉敷島、昭和20年(1945年)3月28日の出来事。




渡嘉敷島集団自決跡地 - 現地の看板より引用
この台地後方の谷間は、去る大戦において住民が集団自決をした場所である。米軍の上陸により追いつめられた住民は、友軍を頼ってこの地に集結したが、敵の砲爆は熾烈を極め、ついに包囲され行く場を失い、刻々と迫る危機を感じた住民は「生きて捕虜となる辱めを受けるより、死して国に殉ずることが国民としての本分である。」として、昭和20年(1945年)3月28日、祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。
兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつが唯一の頼りで、親族縁故が車座になり、1個の手榴弾に20~30名が集まった瞬間、不気味な炸裂音は谷間にこだまし、清水の流れは寸時にして血の流れと化し、老若男女315名の尊い命が失われ悲惨な死を遂げた。
昭和26年3月、この大戦で犠牲になった方々の慰霊のため、この地に白玉の塔を建立したが、周辺地域が米軍基地となったために移設を余儀なくされた。時移り世変わって、ここに沖縄の祖国復帰20年の節目を迎えるに当り、過去を省み戦争の悲惨を永く後世に伝え恒久平和の誓いを新たにするため、ここを聖地として整備し碑を建立した。
平成5年3月28日 渡嘉敷村
その場所は、今では高い壁に阻まれ、入ることは出来ません。

史跡「集団自決跡地」 - 現地の看板より引用
集団自決の実相・ここであったこと - 1945年4月2日 ロサンゼルスタイムス朝刊
侵攻軍、日本民間人の集団自殺を発見。「野蛮なヤンキー」の噂で「拷問」より死を選ぶ日本人達。
琉球列島3月29日(遅)(AP)、米国の「野蛮人」の前に引き出されるよりも自殺する方を選んだ日本の民間人(注:渡嘉敷島の人々)が、死体あるいは瀕死の状態となって折り重なった見るも恐ろしい光景が、今日慶良間列島の渡嘉敷島に上陸した米兵達を迎えた。
最初に現場に到着した哨戒隊に同行したニューヨーク市在住の陸軍撮影兵アレキサンダーロバーツ伍長は、「いままで目にしたものの中で最も凄惨」と現場の様子を表現した。
「我々は島の北端に向かうきつい坂道を登り、その夜は露営した。闇の中に恐ろしい叫び声や鳴き声、うめき声が聞こえ、それは早朝まで続いた。」と彼は語った。
「明るくなってから悲鳴の正体を調べに行くため、2人の偵察兵が出ていった。彼らは2人とも撃たれた。その少し前、私は前方6カ所から8カ所で手榴弾が炸裂して炎が上がっているのを見た。開けた場所に出ると、そこは死体あるいは瀕死となった日本人(注:渡嘉敷島の人々)で埋め尽くされていた。足の踏み場もないほどに密集して人々が倒れていた。」
「ボロボロになった服を引き裂いた布はしで、首をしめられている女性や子供が少なくとも40人はいた。聞こえてくる唯一の音は、怪我をしていながら死にきれない幼い子供達が発するものだった。人々は全部で200人近くはいた。」
「細いロープを首に巻き付け、ロープの先を小さな木に結びつけて自分の首を絞めた女性がいた。彼女は足を地面につけたまま前に体を倒し、窒息死するまで首の回りのロープを強く引っ張ったのだ。彼女の全家族と思われる人々が彼女の前の地面に横たわっており、皆、首を絞められ、各々汚れた布団が掛けられていた。」
「さらに先には手榴弾で自殺した人々が何十人もおり、地面には不発の手榴弾が転がっていた。日本兵(注:島人の防衛召集兵)の死体も6体あり、また他にひどく負傷した日本兵(注:同)が2人いた。」
「衛生兵は負傷した兵士らを海岸へ連れて行った。後頭部に大きなV字型の深手を負った小さな男の子が歩き回っているのを見た。あの子は生きてはいられない、今にもショック死するだろうと軍医は言った。本当にひどかった。」
軍医達は死にかけている人々にモルヒネを注射して痛みを和らげられていた。とロバーツ伍長は語った。
負傷した日本人を海岸の応急救護所まで移そうとしている米軍の担架運搬兵らを、道すじの洞窟に隠れていた1人の日本兵が機関銃で銃撃した。歩兵らがその日本兵を阻止し、救助活動は続けられた。
質問に答えられるまでに回復した日本人達(注:渡嘉敷島の人々)は、米国人は女は暴行、拷問し、男は殺してしまうと日本兵が言ったのだと通訳に話した。彼らは米国人が医療手当をし、食料と避難所を与えてくれたことに驚いていた。自分の娘を絞め殺したある老人は、他の女性が危害を加えられず親切な扱いを受けているのを見て、悔恨の情にさいなまれていた。
記事引用 沖縄県史 資料編3 米国新聞にみる沖縄戦報道 沖縄戦3(和訳編)
平成17年11月30日指定 渡嘉敷村教育委員会
集団自決跡地の場所はこちら

この台地後方の谷間は、去る大戦において住民が集団自決をした場所である。米軍の上陸により追いつめられた住民は、友軍を頼ってこの地に集結したが、敵の砲爆は熾烈を極め、ついに包囲され行く場を失い、刻々と迫る危機を感じた住民は「生きて捕虜となる辱めを受けるより、死して国に殉ずることが国民としての本分である。」として、昭和20年(1945年)3月28日、祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。
兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつが唯一の頼りで、親族縁故が車座になり、1個の手榴弾に20~30名が集まった瞬間、不気味な炸裂音は谷間にこだまし、清水の流れは寸時にして血の流れと化し、老若男女315名の尊い命が失われ悲惨な死を遂げた。
昭和26年3月、この大戦で犠牲になった方々の慰霊のため、この地に白玉の塔を建立したが、周辺地域が米軍基地となったために移設を余儀なくされた。時移り世変わって、ここに沖縄の祖国復帰20年の節目を迎えるに当り、過去を省み戦争の悲惨を永く後世に伝え恒久平和の誓いを新たにするため、ここを聖地として整備し碑を建立した。
平成5年3月28日 渡嘉敷村
その場所は、今では高い壁に阻まれ、入ることは出来ません。

集団自決の実相・ここであったこと - 1945年4月2日 ロサンゼルスタイムス朝刊
侵攻軍、日本民間人の集団自殺を発見。「野蛮なヤンキー」の噂で「拷問」より死を選ぶ日本人達。
琉球列島3月29日(遅)(AP)、米国の「野蛮人」の前に引き出されるよりも自殺する方を選んだ日本の民間人(注:渡嘉敷島の人々)が、死体あるいは瀕死の状態となって折り重なった見るも恐ろしい光景が、今日慶良間列島の渡嘉敷島に上陸した米兵達を迎えた。
最初に現場に到着した哨戒隊に同行したニューヨーク市在住の陸軍撮影兵アレキサンダーロバーツ伍長は、「いままで目にしたものの中で最も凄惨」と現場の様子を表現した。
「我々は島の北端に向かうきつい坂道を登り、その夜は露営した。闇の中に恐ろしい叫び声や鳴き声、うめき声が聞こえ、それは早朝まで続いた。」と彼は語った。
「明るくなってから悲鳴の正体を調べに行くため、2人の偵察兵が出ていった。彼らは2人とも撃たれた。その少し前、私は前方6カ所から8カ所で手榴弾が炸裂して炎が上がっているのを見た。開けた場所に出ると、そこは死体あるいは瀕死となった日本人(注:渡嘉敷島の人々)で埋め尽くされていた。足の踏み場もないほどに密集して人々が倒れていた。」
「ボロボロになった服を引き裂いた布はしで、首をしめられている女性や子供が少なくとも40人はいた。聞こえてくる唯一の音は、怪我をしていながら死にきれない幼い子供達が発するものだった。人々は全部で200人近くはいた。」
「細いロープを首に巻き付け、ロープの先を小さな木に結びつけて自分の首を絞めた女性がいた。彼女は足を地面につけたまま前に体を倒し、窒息死するまで首の回りのロープを強く引っ張ったのだ。彼女の全家族と思われる人々が彼女の前の地面に横たわっており、皆、首を絞められ、各々汚れた布団が掛けられていた。」
「さらに先には手榴弾で自殺した人々が何十人もおり、地面には不発の手榴弾が転がっていた。日本兵(注:島人の防衛召集兵)の死体も6体あり、また他にひどく負傷した日本兵(注:同)が2人いた。」
「衛生兵は負傷した兵士らを海岸へ連れて行った。後頭部に大きなV字型の深手を負った小さな男の子が歩き回っているのを見た。あの子は生きてはいられない、今にもショック死するだろうと軍医は言った。本当にひどかった。」
軍医達は死にかけている人々にモルヒネを注射して痛みを和らげられていた。とロバーツ伍長は語った。
負傷した日本人を海岸の応急救護所まで移そうとしている米軍の担架運搬兵らを、道すじの洞窟に隠れていた1人の日本兵が機関銃で銃撃した。歩兵らがその日本兵を阻止し、救助活動は続けられた。
質問に答えられるまでに回復した日本人達(注:渡嘉敷島の人々)は、米国人は女は暴行、拷問し、男は殺してしまうと日本兵が言ったのだと通訳に話した。彼らは米国人が医療手当をし、食料と避難所を与えてくれたことに驚いていた。自分の娘を絞め殺したある老人は、他の女性が危害を加えられず親切な扱いを受けているのを見て、悔恨の情にさいなまれていた。
記事引用 沖縄県史 資料編3 米国新聞にみる沖縄戦報道 沖縄戦3(和訳編)
平成17年11月30日指定 渡嘉敷村教育委員会

この記事へのコメント
教科書検定反対県民総決起会のときに、集団自決の生存者が証言していましたね。本当に痛々しい歴史です。
渡嘉敷島、一度行ってみたいです
渡嘉敷島、一度行ってみたいです
Posted by 美江
at 2009年03月28日 21:43

美江さんこんにちは。
渡嘉敷島にはじめて行ったのですが、
偶然この日となっていまして、
現地の方からいろいろ話を聞くことができました。
ただ、あまりにも悲惨な内容でしたので、
うまく表現できる自信がなくて、
今回の記事はコメント無しで公開することにしました。
現地の看板の内容をそのままのせただけなのですが、
そこから何か感じ取って頂ければと思います。
渡嘉敷島にはじめて行ったのですが、
偶然この日となっていまして、
現地の方からいろいろ話を聞くことができました。
ただ、あまりにも悲惨な内容でしたので、
うまく表現できる自信がなくて、
今回の記事はコメント無しで公開することにしました。
現地の看板の内容をそのままのせただけなのですが、
そこから何か感じ取って頂ければと思います。
Posted by はじめ
at 2009年03月29日 15:29

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