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渡名喜村立歴史民俗資料館とフクギ群の風景
渡名喜集落のやや南側に、渡名喜小中学校の旧校舎を利用した歴史民俗資料館があると聞いたので、さっそく行ってみます。
旧校舎の一階は老人福祉施設に、二階は歴史民俗資料館と図書館になっています。
渡名喜村の先史時代 - 歴史民俗資料館パンフレットより引用
渡名喜村には現在のところ旧石器時代人の残した遺跡は発見されていません。では、この小さな渡名喜島に人々が住みつき生活するようになるのはいつ頃からでしょうか。先年実施された島の考古学的調査の成果によれば、今から3500年も昔のことだということが分かりました。山下洞人の3万年前という時代には遙かに及びませんが、それでも周囲8キロメートルにも満たないこの小さな島に、3千数百年も遠い昔から人が住みつき生活していたということにはびっくりさせられます。
この時代の人々が残した生活の痕跡は、現在東貝塚として残っています。この資料館には東貝塚から出土した3500年前の伊波式土器をはじめ、石器や貝製品、食料残滓のイノシシの遺存骨、魚類の骨、貝殻等が多数展示してあります。
東貝塚人たちは、近くの海や山で狩猟、漁撈をしながら拾数人の小集団で生活していたと見られます。また土器の変化からみますと、彼らはわりと長期に渡ってこの渡名喜島で定住生活を送っていたことが分かります。
その後、2千数百年前になると、島の西海岸側のユブクという砂丘地に人が住みつくようになりました。ところが彼らの残した遺跡は、砂地深く埋もれているということもあって、その内容はよく分かっていません。当時の人々の生活の様子を知るには、今後の調査に期待するしかないようです。
今から1500年~1700年ほど前の貝塚時代後期になると、西森と大岳の裾野に発達した平坦地に再び貝塚人が住みつくようになります。彼らが残した貝塚がそれぞれアンジェーラやアーカル原の地中深く埋もれています。アーカル原遺跡の発掘では、砂地に掘られた柱穴が数拾本も検出されました。これらの柱穴から類推すると、当時の住居は丸木柱の堀立小屋であったようです。その後、およそ1200年~1300年ほど前になると人口も増加し、西ノ底原や兼久原一帯の広い平坦地に大きな集落ができるようになります。彼らの住居跡はまだ発見されていませんが、生活資料の残滓を棄てた場所には直径9メートル、短径5メートルの広さでレンズ状に推積した貝塚が残されています。(西底原貝塚B地点)
また、この貝塚から150メートルほど西にいった場所(現在の渡名喜小学校の校門付近)には、当時の人々の共同墓地が営まれていたことが分かりました。この墓地の調査では、わずか2メートル×13メートルのトレンチから8個体分の人骨が掘り出されています。これらの人骨の葬法は頭の向きがほとんど東に統一され、下肢は足先を揃えて膝をたて、その膝を西側に倒した姿勢で埋葬されていました。そのうち、第6号人骨の場合には、ヒメジャコに孔を穿いた従来魚網用の錘と考えられている貝製品を、また第2号人骨の場合には、口と底を打ち欠いた壺型土器1個がそれぞれ副葬されていました。琉球大学保健学部教授の佐野一先生は、発見された8個体の人骨について次のように発表しています。
第1号人骨 壮年男子 推定身長 157.5センチ
第2号人骨 成人女子と13才前後の小児
第3号人骨 熟年女性 推定身長 142センチ
第4号人骨 壮年男子 推定身長 154.5センチ
第5号人骨 熟年女性と壮年男性 推定身長いずれも156センチ
第6号人骨 熟年男性 推定身長 168センチ
歴史民俗資料館は撮影禁止ですので画像は紹介できませんが、過去の遺跡調査で発掘された考古遺物や、島で実際に使われていた民具や祭具などが多数展示されていました。
また歴史民俗資料館の外には、樹齢200年は超えるといわれるフクギ群を見ることができます。
渡名喜番所渡名喜小中学校跡のフクギ群 - 現地の看板より引用
このフクギ群の正確な樹齢は不明であるが、村民の伝誦によれば、少なくとも200年は超えるものと推定される。樹高約14メートル、胸高周囲1.7メートルを最大として、合わせて9本の大小木からなる。
平成元年(1989年)、このフクギ群から6本の取り木が行われ、渡名喜小学校(878番地)に創立百周年記念木として植樹されている。平成3年3月29日、渡名喜村指定文化財に指定。
平成4年4月15日 渡名喜村教育委員会
なかなか見応えのあるフクギです。
渡名喜村立歴史民俗資料館の場所はこちら
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旧校舎の一階は老人福祉施設に、二階は歴史民俗資料館と図書館になっています。
渡名喜村の先史時代 - 歴史民俗資料館パンフレットより引用
渡名喜村には現在のところ旧石器時代人の残した遺跡は発見されていません。では、この小さな渡名喜島に人々が住みつき生活するようになるのはいつ頃からでしょうか。先年実施された島の考古学的調査の成果によれば、今から3500年も昔のことだということが分かりました。山下洞人の3万年前という時代には遙かに及びませんが、それでも周囲8キロメートルにも満たないこの小さな島に、3千数百年も遠い昔から人が住みつき生活していたということにはびっくりさせられます。
この時代の人々が残した生活の痕跡は、現在東貝塚として残っています。この資料館には東貝塚から出土した3500年前の伊波式土器をはじめ、石器や貝製品、食料残滓のイノシシの遺存骨、魚類の骨、貝殻等が多数展示してあります。
東貝塚人たちは、近くの海や山で狩猟、漁撈をしながら拾数人の小集団で生活していたと見られます。また土器の変化からみますと、彼らはわりと長期に渡ってこの渡名喜島で定住生活を送っていたことが分かります。
その後、2千数百年前になると、島の西海岸側のユブクという砂丘地に人が住みつくようになりました。ところが彼らの残した遺跡は、砂地深く埋もれているということもあって、その内容はよく分かっていません。当時の人々の生活の様子を知るには、今後の調査に期待するしかないようです。
今から1500年~1700年ほど前の貝塚時代後期になると、西森と大岳の裾野に発達した平坦地に再び貝塚人が住みつくようになります。彼らが残した貝塚がそれぞれアンジェーラやアーカル原の地中深く埋もれています。アーカル原遺跡の発掘では、砂地に掘られた柱穴が数拾本も検出されました。これらの柱穴から類推すると、当時の住居は丸木柱の堀立小屋であったようです。その後、およそ1200年~1300年ほど前になると人口も増加し、西ノ底原や兼久原一帯の広い平坦地に大きな集落ができるようになります。彼らの住居跡はまだ発見されていませんが、生活資料の残滓を棄てた場所には直径9メートル、短径5メートルの広さでレンズ状に推積した貝塚が残されています。(西底原貝塚B地点)
また、この貝塚から150メートルほど西にいった場所(現在の渡名喜小学校の校門付近)には、当時の人々の共同墓地が営まれていたことが分かりました。この墓地の調査では、わずか2メートル×13メートルのトレンチから8個体分の人骨が掘り出されています。これらの人骨の葬法は頭の向きがほとんど東に統一され、下肢は足先を揃えて膝をたて、その膝を西側に倒した姿勢で埋葬されていました。そのうち、第6号人骨の場合には、ヒメジャコに孔を穿いた従来魚網用の錘と考えられている貝製品を、また第2号人骨の場合には、口と底を打ち欠いた壺型土器1個がそれぞれ副葬されていました。琉球大学保健学部教授の佐野一先生は、発見された8個体の人骨について次のように発表しています。
第1号人骨 壮年男子 推定身長 157.5センチ
第2号人骨 成人女子と13才前後の小児
第3号人骨 熟年女性 推定身長 142センチ
第4号人骨 壮年男子 推定身長 154.5センチ
第5号人骨 熟年女性と壮年男性 推定身長いずれも156センチ
第6号人骨 熟年男性 推定身長 168センチ
歴史民俗資料館は撮影禁止ですので画像は紹介できませんが、過去の遺跡調査で発掘された考古遺物や、島で実際に使われていた民具や祭具などが多数展示されていました。
また歴史民俗資料館の外には、樹齢200年は超えるといわれるフクギ群を見ることができます。
渡名喜番所渡名喜小中学校跡のフクギ群 - 現地の看板より引用
このフクギ群の正確な樹齢は不明であるが、村民の伝誦によれば、少なくとも200年は超えるものと推定される。樹高約14メートル、胸高周囲1.7メートルを最大として、合わせて9本の大小木からなる。
平成元年(1989年)、このフクギ群から6本の取り木が行われ、渡名喜小学校(878番地)に創立百周年記念木として植樹されている。平成3年3月29日、渡名喜村指定文化財に指定。
平成4年4月15日 渡名喜村教育委員会
なかなか見応えのあるフクギです。
渡名喜村立歴史民俗資料館の場所はこちら
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