沖縄の風景

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宮古島の「久松みゃーか群」、宮古島に今も残る「ぶさぎ」とも呼ばれる風葬墓地の巨石墓


宮古島に行ってきたわけですが....

宮古島市、久松公民館の庭先に、
石を積んでつくられた建造物があります。
宮古島の「久松みゃーか群」、宮古島に今も残る「ぶさぎ」とも呼ばれる風葬墓地の巨石墓

大きさは縦、横とも15メートル程度で、

大昔の住居跡のようにも見えますし、
パッと見ただけではよくわかりません。
宮古島の「久松みゃーか群」、宮古島に今も残る「ぶさぎ」とも呼ばれる風葬墓地の巨石墓

本 久松みゃーか(巨石墓)群

 みゃーかは、久貝、松原両字にまたがって、かつては多数あったと推定されるが、現在確認できるのは4基である。みゃーかについて久松では古くから「ぶさぎ」とよびならわしている。稲村賢敷(いなむらけんぷ)、金子エリカ両氏の研究報告があり、創建は14~16世紀ごろと推定される。
 稲村説「宮古在来の風葬墓地(ふうそうぼち)で、15世紀末ごろまで巨大なものへと発達、その後沖縄本島の影響をうけて横穴式へ移行」、金子説「1360年ごろから元・明動乱をさけて、優秀な技術をもって大陸から渡来した一群の人々によってつくられた」などである。
 久貝ぶさぎは、仲宗根豊見親の夫人宇津免嘉(うつめが)の父安嘉宇立親の墓と言い伝えている。仲宗根豊見親のころに宮古の石造建築物はいちじるしく発達したとみられるだけに、久松みゃーか群は、宮古の「古琉球期」時代を解明していく上で重要なカギを秘めているものと考察される。

宮古島市指定有形文化財(建造物)
昭和49年(1974年)8月29日 指定

久松公民館の庭先に残る石垣は、
宮古島に今も残る風葬墓地の跡なのだそうです。
宮古島の「久松みゃーか群」、宮古島に今も残る「ぶさぎ」とも呼ばれる風葬墓地の巨石墓

今はもう行われていないのですが、

宮古島の風葬の習慣は沖縄本島のそれとは若干異なり、
「みゃーか」とよばれる巨大な石囲いの墓に、
遺体を安置する方法が取られていたそうです。
宮古島の「久松みゃーか群」、宮古島に今も残る「ぶさぎ」とも呼ばれる風葬墓地の巨石墓

かつては宮古島のあちこちに、
ミャーカとよばれる巨石墓があったとされますが、
現在も残るみゃーかはほんのわずかです。

久松公民館のそばに目立たないよう存在する、
久松みゃーか群の石垣ですが、

宮古島の当時の風葬の習慣を知る、
大切な施設であることは間違いなさそうです。
宮古島の「久松みゃーか群」、宮古島に今も残る「ぶさぎ」とも呼ばれる風葬墓地の巨石墓

沖縄本島 久松みゃーか群の場所はこちら




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Posted by 沖縄の風景 はじめ at 2016年12月07日   12:30
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